~ Edu-sophia ~ えでゅそふぃあ

教師支援の実践を通して思うことや考えたことを書いていきます。教師教育分野の発展につながり、より良い教育への一助となること願っています。

コロナ禍の恩恵

未曾有の事態に直面している今、だからこそ見えてきたことがたくさんある。

経済は打撃を受け、生活が成り行かない人もあり、見通しの立たない社会情勢のなか、苦しい思いに溢れている。一方で、この境地に追いやられたから生まれてきた考え方やアイデア、新しい見方、気づきは計り知れない。

 

少人数学級について、明るい兆しが見えてきたこのニュースは、コロナ禍の恩恵と言っていいかもしれない。

https://www.kyobun.co.jp/news/20200908_06/

 

学校教育の充実化を図るには、先ず行わなければなかったのが、一学級あたりの人数を減らすことだと言える。教育予算の拡充を求める声はずっとあったが、なかなか声は届かなかった。

教育の質の向上に向けての少人数学級が教育現場が望んできた真意であり、ソーシャルディスタンスのためではないが、事態は動きそうな気配である。

理由がソーシャルディスタンスを目的だったとしても、20人(かなり希望的な数字)学級が実現するならば、こんな素晴らしいことはない。

 

コロナ禍という、人類が世界規模で遭遇している未曾有の状況下だからこそ、これまで当たることがなかったところに光が当たった、そう思う。

 

暗闇に陥ったからこそ見えた希望の光。明るい未来に向けての大きな一歩、ぜひとも実現してほしい。

未来ある子どもたちのために。

学校のトイレ

東京都の学校に関わるようになり、早くも5年が経とうとしています。

地方の学校との違いで驚いたことの一つにトイレがあります。

学校によるとも思いますが、少なくともわたしが知る都内の何十校かではトイレのスリッパが使われていません。これはかなりの衝撃でした。

私が勤務していた学校(地方の、多分その市内全小中校)では、トイレのスリッパの揃い具合が、その学校の落ち着き具合などのバロメーターの役割を担っていたように思います。トイレのスリッパは学校においてそれほど重要なアイテムでもあるわけです。それがないなんて…不自然さを感じると共に「どうやってトイレに入るんだろう?」「スリッパ置きがどこかにあるのかな?」など、私の頭の中は?でいっぱいになり、初めはトイレに行くことを躊躇う気持ちになりました。

周りの人の行動で確認し、おそるおそる、私は上履きのままトイレに足を踏み入れました。5年目になっても、また違和感を持ちながらのトイレに行っています。

先ほど述べた、学校の様子を掴むアイテムであるスリッパがない!

これも理由の一つですが、最大の理由は「汚くない⁉︎」ということです。

学校用の上履きを使用しているにも関わらず、教室や廊下を歩く上履きのまま、トイレに入るのです。

全て洋式の近代的なトイレなら、まだ理解できますが、未だに和式が多い学校のトイレです。トイレ用のスリッパなどがないことに違和感しかありません。

 

馴染めない私の方が変なのでしょうか…。

「教科の個別性と横断」と社会構成主義

日本教師教育学会の研究促進・若手交流企画「教師教育の実践と研究」④ー教師の力量形成における教科の固有性と横断ー に参加。

 

教科横断的な…が求められている。

小学校教員は全科指導のため、教科横断的思考の素地はあるのだろうと思っていたけれど、教員養成課程の現状を伺うと、どうやらそれは怪しい感じだ。

中学以降は教科担任制になるので、教科横断というべきかも考え方のハードルは、小学校のそれよりも

高いように感じる。

 

「教科横断的な」とは何を指すのか、ということも問われた。

立場の違い(大学教員、小・中・高教員、その他…)もあり、言葉の定義そのものから問わなければならないような状況にもあった。

(一つのことを議論するには、これは当然起こることだと思っているので、そうした発言をしてくださった方に心の中で大きく拍手を送っていました)

 

そんなこんなで、いろんな立場の人が場を介して「教科の個性化と横断」についていろいろ話してみて分かったことは、 

やはり社会構成主義的に基づく考え方の流れがきていることの現れであろうと。

人間が介在しているところでは、存在自体の影響により起こっている事象もあるわけで。

 

”一般的な“モノの見方、考え方に、少〜しずつだけれど変化が起こってきていることを実感した日だった。

深掘り、科学的立証が優位だった社会で生きにくかった私には、少しずつ生きやすい方向へ変化しているような気がしている。

 

 

 

少人数制に物申す

 少人数制のデメリットについて

 ⑴ 組織としてのOJTが機能しない

     同じ教科を担当する教員が同時に授業を行っているため、同僚(先輩・後輩)の授業を観ることができない。これは、学校内における教科内OJT は全く機能せず、教科指導力が上がらない。教員間の学び合いの機会が持てない。

  → 教員の質の低下につながる

 

 ⑵  教室移動が多い

       生徒にとってみれば、教科毎に教室はあちこちする。落ち着いている学校であれば、教室移動にもスムーズに対応できるであろうが、そうでない場合、生徒の落ち着きを失わせる要素になってしまう。

加えて、身体に合わないサイズで授業を受けることが多く、これも生徒にとって大きな負担であり、学習への集中を欠く要素となる。175センチある生徒が、155センチの生徒が使っている椅子と机に座るとどうだろうか。脚が余るため、机の外に出したくなる。つまり体は横を向いてしまい、隣や後ろの生徒と私語が始まる絶好の状況となるわけだ。身体に合わないサイズの机や椅子では、姿勢は悪くなり、机上も乱れ、集中力を欠く。

  少人数制を導入しているところは、ここまでの配慮をしているだろうか。(少なくとも私が見てきた学校で対応しているところはない。現状として、「できない」というべきかも)

  → 落ち着かない学校は負のスパイラルに落ち入り、生徒指導の困難さからぬけられない

  → 良い学習環境が提供されていない

 

 ⑶  少人数制のメリットである「少人数」なのか

      1クラスを2展開しているのであれば、1クラス20人未満であり、少人数といえるだろうが、多くは2クラス3展開であり、30人近い場合も多い。10数人と20台後半では、同じ状況とは言い難い。

30人近いクラスの場合は、少人数のメリットはほとんど感じられない。

人数の話でいけば、35人学級で(欲を言えば30人だが、実現性に向けて遠慮した数字)ティーティーチング制度を入れるのが理想。(私は中学英語しかしらないので、中学英語においては、の話。数学についても、同僚の先生方にお話を伺っている感じからすると、数学の場合は少人数のメリットを感じる部分が多いのだとか。)

要は、教員数が少ないのが問題なのだ。

予算を少なく見積もれる対応として編み出された少人数制。少ない人数での指導が、そんなに有効なんだったら、単純に教員を増やせばいいじゃないか。学級の制度があるのに、敢えてクラスを教科毎に解体し、生徒にも、教員にも、学校にも負担ばっかり。

 

色々ツラツラと書きましたが、言いたいことは

     先生の数をもっと増やせー!

     少人数制を止めてTT を導入しろー!       

ということでした。

少々乱暴なことも書きましたが、

より良い教育に向けて、35人学級TT 制の実現を、心より願います。

 

 

 

 

 

 

 

     

two-way communication

コミュニケーションは自分と相手がいる。

よいコミュニケーションが行われるには、

伝える側と受ける側双方の努力が必要だ。

伝える側は、自分の伝えたいこと(真意)が相手に伝わったのかを確認する、

受ける側は、相手が伝えようとしていることを受け取っているのかを確認する、

この作業が大切だ。

言葉はコミュニケーションのツールだ。

その言葉の持つ意味には、発信した人の想いや感情も乗っかっていることを、

受け手は意識しておかねばならない。

伝え手も、自分が言葉に乗せたモノを、確認せねばならない。

コミュニケーションは、自分と相手で行うtwo-wayなのだ。

 

生徒に向けて発しているその言葉は、ちゃんと生徒一人ひとりに受け取られているだろうか。

教師の発話が、一方向コミュニケーションになっていることはないだろうか。

 

授業はコミュニケーション

授業力って何だろう。

最近、これについてずっと考えている。どの角度からの見方でそれを語ればいいのか、まずそこでつまづいてしまっているが、最近「授業は先生と生徒の1対全(クラス全員)のコミュニケーションだ」と思う。だから、先ずそのコミュニケーションを豊かにすることが授業力を上げる第一歩ではないか、と。

 

授業の大方は教科指導を行っているわけで、その観点からいえば、授業力とは教科の指導の力量があることを指すのだと言える。しかしながら、教科指導に関わる技術や道具(授業アイデアと言われるものやハウツー的要素を含むもの)をいくら自分の引き出しに入れることができたとしても、それを使う教師自身がそれらを使うことのできる力を身に付けていなければ、素晴らしい技術や道具は持ち腐れしてしまうわけで。だとするならば、教師が技術や道具を使いこなせるような力を身に付けることが先決だと言っても過言ではないだろう。

すると、その力を身に付けるにはどうするのかにフォーカスして取り組むことが、授業力を向上させるためには先ず優先されるのだろう。このような前提を踏まえ、授業観察を続けてきたところ、このように思うようになった。

「授業は教師と生徒のコミュニケーションだ」

一人の教師 対 生徒(クラス人数)、要するに、授業というのは、毎時間1:40(最大数)のコミュニケーションを通して営まれている、ということである。当たり前のことじゃないか、そう言われるかもしれない。しかし、その当たり前のことが、あまりに当たり前過ぎて、我々はそこに大事なポイントが存在することに気付かずにきてしまったのではないだろうか。

 

当たり前のことであり、最も基本的なことである。だからこそ大事な、注目すべきポイントなのだ。最も基本的にして最重要である、1:40のコミュニケーション、果たしてそこは十分に機能しているのか。そこをしっかり検証することが、授業力向上を図るための最初の段階であろうと、自分なりに仮説をたてた。2年少々、毎日授業観察をしてきた経験から立てた仮説だ。

 

さて、次のステップとして何をするとよいだろう。

コミュニケーションがちゃんととれているかどうかは、当事者同士の確認と、第三者による観察とフィードバックによりある程度確かめることができる。

生徒への授業アンケートと、観察者(私)のフィードバック、ということになるだろうか。これらをどうやっていくことができるか…具体策を検討しなければ。

 

最後に。

忘れていけないのは授業力を高めるのは、私でなく授業実践者である、ということ。

授業をする先生自身が、自分を変えたいと思っての取り組みであることが前提である。先生が自身の変化(成長)に主体的にかかわることに対し、私ができるのは、それをサポートすることだけなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに

 学校教育現場において、教師支援に携わっています。

 「教員の授業力向上を通し、生徒の学力向上を図る」というのが業務の目的です。具体的な業務内容は、担当校において該当教員の授業を参観し、授業改善に向けた指導・助言行う、というものです。これは、学校教育現場における教師の研修であり、教師教育の一つの形態であると言えます。

 

 この仕事に就いて3年目を迎え、これまでに参観した授業は数百時間、関わった先生方は数十人にも及びます。膨大な量の授業参観と現場の先生方との関わりから得たものを、何らかの形で発信することが必要だと感じていました。私が経験してきたものの中に、広義的な教育においても、狭義的に学校教師への教育においても、何かしら参考にできるものがあるかもしれない、それを埋もれさせたままにしてはいけない、そんな思いです。アカデミックな方法により事象を検証をしたり、それを元にした記述ができれば、それに越したことはないと分かっていますが、それがために二の足を踏み、なかなか発信することができませんでした。それで今回私はブログへ綴る、という形を採ることにしました。

 

  ここに書かれることは、自分の体験したことを元に、私の主観に基づくものであることが中心となります。予めご了解頂いた上でお読み下さい。

  対面でない、ブログ上で議論することは目的としておりませんが、理論的な点において、ご助言やアドバイスを頂けるのでしたら幸いです。よろしくお願い致します。